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もえぎの日録

関心空間(2016.10.31閉鎖)から移行 日記とキーワードが混在しています 移ろう日々のことなどを記します

春のあらわれ Apparition

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           ご近所の ハクモクレン(白木蓮) Magnolia heptapeta 2017.3.12 

駅前の花屋の店先にカジイチゴの枝ものが並んでいたのを見つけたのは雛節句が過ぎてから。桃の花に替えて挿すと、こちらの日持ちは驚くほどで、10日が過ぎてもまだ新芽の青葉がシャッキリと、蕾から白い花もほころび始めています。

 

花瓶は、上の日記の李朝風徳利。枝もの、丈ある切り花も、和洋を問わずに使えるのでとても便利。

 

カジイチゴの花が自然の山野林床で見られるのは、ヒメシャガ・ヤマブギ・ヤマルリソウ・タンポポなどが櫻の下で見頃になる頃… そう 花屋は着物の柄と同じで、常に季節のひと足先をゆく品揃えのようですから3月の声とともに店頭に並んだのかもしれません。

樹木図鑑(カジイチゴ)

 

眞白き啼泣  ハクモクレン

櫻の前に、いち早くほころびるのが、庭木や街路樹のマグノリアです。

 ハクモクレン(白木蓮)Magnolia heptapeta

 コブシ(辛夷)Magnolia kobus

 モクレン:シモクレン(木蓮:紫木蓮)Magnolia quinquepeta

ことにハクモクレンは、春彼岸の前に「高木に小鳥が群がるように咲く」と形容されるように、白く大きな花が一斉に咲く姿は、華やかさを通り越して異妖でもあり、関東では、この時期特有の突風やら氷雨やらで、満開高木の夕闇の花灯りが一夜にして落ち、茶褐色に散り敷いた無惨な花辨をたびたび見たことがありました。

しっかりした毛に覆われた紡錘形の蕾が天を指すように目立ち始めると、白い花びらが殻を破るように卵型に立ち上がる姿は、手のひらほどの大きな花辨ということもあり、心なしかなまめかしく感じるのは私だけでしょうか?

そしてその眞白な花灯りの命は驚くほど短い…。

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    何年か前にその花蘂を解剖すべく、写真を撮りました。

 

ハクモクレンの後にやってくるのが、一回り小ぶりな白花の野趣あるコブシ(辛夷)。

赤紫が色目立つモクレン:シモクレン(木蓮:紫木蓮)は遅れて咲くのがおおかたの順番です。

 先日は春の気温に誘われ、ご近所の立派なハクモクレンの様子を見ながら、石神井公園まで久しぶりに自転車を走らせました。

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        ハクモクレンの開花と同じ頃に咲く、近くの公園のオオシマザクラ 2017.3.12

 

石神井公園

いつも西側から三宝寺池へ降り、観察池を一周して帰ってくる私の散歩コース。

この日は暖かな風のない日曜日とあって、散歩・ジョギング・子連れの家族・鳥撮りおぢさん他、櫻にはまだ早いのに、なかなかの人出でした。

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ハンノキ

画像は三宝寺池。池中、池端に多数生えるハンノキの姿は、都内の住宅地の中の公園とは思えない趣きがあります。ハンノキには昨年の実が着いたまま、今年の花房がたくさん垂れている様子が見えます。が、この時期、花粉アレルギーの方には大敵だそうで、あまり近づかないのが得策のようです。

ハンノキに絡むのはノイバラの新緑で、既に繁茂しはじめていました。

カモたちはほとんどが北に帰り、キンクロハジロがちらほらと。スイスイ泳いでいたのは常連のバンカイツブリで、大型の鳥は、カワウダイサギアオサギブトガラスなど。ハンノキの陰にも、ゴイザギが2,3隠れているはずです。

池を半周して観察池に着くと、相変わらずの大砲カメラの鳥撮りおぢさんの群れ…

今や、都会のどの公園でも普通に見られるようになったカワセミ目当ての方々が、撮影スポットも設えられているためか、ここはいつも人だかりができています。

すっかり都会に馴染んだカワセミは、お立ち台の添え木から水中ジャンプしたり、右へ左へと愛想を振りまいておりました。

 

 野草園のヒトリシズカニリンソウタチツボスミレを見ながらメタセコイアの林の北側の半周を戻るところで、この日の嬉しい出逢いがありました。

鳥撮りおぢさんやお姉さんが数人、アオキの繁る藪をのぞき込んでいます。

尋ねるとルリビタキの雄が居るとのこと。明治神宮観察会や日光野鳥研究会で、雌は遠目に何度か見たことがありました。雄を3m弱の至近で見たのは初めてでした。

ヒタキ類は、眼がまあるく愛らしい小鳥で、これは幼鳥らしくぷっくりした体つき。暗い藪の中を行ったり来たりと眼を楽しませてくれました。

林の上方からは、カケスの賑やかな声も聞こえました。

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Apparition あらわれ  Stephane Mallarme ステファヌ・マラルメ

学生時代の個人的な勉強会「世紀末論」で、仏蘭西象徴主義<サンボリズム運動>の中で触れた本の一冊に 岩波赤帯548-1『マラルメ詩集』鈴木信太郎譯 がありました。

文庫を繰りながら釘付けになった一篇が 若きマラルメ(1842-1898)が後の妻マリーに宛てたと言われるこの恋(鈴木信太郎風には 戀 と書く)の歌です。創作は結婚前後とみられる21歳頃らしいのですが、発表初出は42歳と言われていますから、長年温め推敲を繰り返した歌のようです。 

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私は仏語は解せませんので Apparition の譯も日本語の何がいちばん適し応するものか?と思いながら他の譯も読みました。時に西脇順三郎のは「幻」の一語で、現代口語文に寄る内容は、何か味気なく思慕の切なさもスル~してしまいそうなものに感じます。せめて「出現」とか…。

月は悲しむ。天使は涙を出して

夢み、指に楽弓、かすんだ

花の静寂に死にそうなヴィオロン

すすり泣き花冠をすべる  西脇順三郎譯「幻」Apparition

 

月魂は悲しかりけり。熾天使は涙に濡れて、

指に樂弓、朧にけぶる花々の靜寂の中を

夢みつつ、花辨の蒼空の上を渡りゆく

眞白き啼泣 音も絶え絶えの胡琴に ゆし按じたり。

      鈴木信太郎譯 あらわれ Apparition         

あらわれ Apparition :マラルメ

 

こうした、鈴木信太郎譯の意訳めいた象徴主義的解釈のテキストは、五七調の音韻・文語の選択の諧調が不思議に身に馴染み、私の脳髄には高い城壁のごとくそそり立ちつつ 日夏耿之介齋藤磯雄 への興味へと繋がりました。

 

櫻にはまだ早いこの時期、夕闇に燈るように咲く大木のハクモクレンを眺める折ふし、口を附いて出るストローフは、この鈴木信太郎マラルメとの交感(コレスポンダンス)を想わせる あらわれ の一節

またそれは、 ルリビタキ の あらわれ Apparition にも通ずるちいさな楽しみであります。

 

Apparition は、クロード・ドビュッシーの歌曲にもなっており、なかなか人気の楽曲のようなので、私の好みではないのですが貼っておきます。


 

aude Debussy (1862-1918)

 

7年ぶりの長編 発売前に重版だという新刊本『騎士団長殺し』を想う

ブック

都内のきさらぎ2月は、中・高・大学の入学試験が真っ盛りです。

既に合否が判明した親たちでしょう、スーパーの売り場にカートを置いたまま

「おめでとう」合戦の長話に興じる母親たちを垣間見ますが、他の方の買い物の邪魔にならぬよう周囲へのお気遣いもぜひお願いしたいもの…。

春は、進学・卒業・就職・転職・転勤・移動 などなど 日本は節目の季節です。

合否は、階段のステップのようなものであり目的地ではないですし、願い叶わぬ結果であっても、別の道にはまた新たな出逢いやチャンスは必ずありますから、それらを大事に重ねてゆけば、月日はあっという間に過ぎゆくような気がします。

 

標題のキャッチで喰いついた村上春樹ファンの方には、たぶん申し訳ない内容となる以下の文章……きわめて個人的見解による思いの丈ですので、読むという作業が、これほど人によって異なるものなのか?を確認しつつ、読み飛ばしていただけたらと思います。

 

今週末24日(金曜日)発売予定の村上春樹新刊『騎士団長殺し』全2冊 新潮社 

この広告が出たのは確か昨秋のことでした。


街の書店が次々に姿を消し、取次(出版物流の問屋のようなもの)すらも淘汰され、長引く構造不況が更に加速する出版業界で、これほど売り上げに貢献している稀有な作家も他にはなかなか見当りません。発売前に一部累計70万部という刷り、初版50万としてもギョーカイはお祭り騒ぎの様相となるわけです。

 

紙媒体の書籍は、製紙会社・印刷会社・製本・物流・倉庫・取次・書店 と、出版社だけでなく多くの人の手を経て、手のひらに届く 物 です。

経験上(見学)で、私が知るこの流れの中で、一番に手間、つまり時間がかかるのが製本ですから、製本工程がいかにオートメーション化したとしても、工場のラインはフル稼働でこの数をこなすのに躍起になったであろう ひさかたぶりの好景気と想像します。

 

ちょっとメジャーな作家さんの上製本でも、初版3000部くらいからが普通です。初版50万部(発売前に更に増刷決定)という数字がいかに破格であるか…しかも今の時代に紙媒体で欲しがっている人が居るというのも、なかなか面白い現象ですね。読者に年長者が多いということなのか?そうした購買層分析も、web予約などで既に解析されていることでしょう。

 

 さて、私が村上氏の文章に初めて出会ったのは、志望の大学に落ち、仕方なく入学した大学生活の独り暮らしが始まった頃、友だちの部屋に遊びにいった折に、面白いよ と勧められたのが風の歌を聴けでした。ちょうど2作目1973年のピンボールが発売された頃で、PCやwebなど皆無のLPレコードの時代です。

情報は書店の立ち読みや図書館で得た雑誌や書籍から。文芸誌「群像」「文學界」「文藝」などは、いちおう毎月チェックはしていました。

高校生の頃に、現代作家では村上龍中沢けいの単行本を読む機会はありましたが、身近な感じはなく、この時に出逢った『風の歌、、』の文体はとても新鮮な感覚で、登場人物も同じ大学生だったこともあり、感情移入しやすく読めたのかもしれません。

S・フィッツジェラルドサリンジャーなど、食指の動かなかったアメリカ文学に触れる機会を得たのも村上氏のおかげだと思います。

ついでに言えば、リチャード・ブローディガン『アメリカの鱒釣り』の一節を何度も反芻する陥穽に陥る 苦い愉しみ も、村上&藤本和子の繋がりでありました。


今、振り返って正直に言えば、初期作品の内容はあまり覚えてないので、文体や表現方法に魅かれたのでしょう。上の日記にもあるとおり、アンドレ・ジッドに傾倒していた少女期でしたから、当時、内容で私が魅了された作品は、村上氏が失敗作だったという単行本化されていない作品の街と、その不確かな壁でした。

 

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これは後の世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドの底本とも言える作品ですので、お好きな方は図書館のレファレンスサービスで読むと面白いかもしれません。

 

村上作品の全てが好みだというわけではない自分が、どうしてこの街と、その不確かな壁に引っかかるのか? この時期には、やはり 書くということ の問題提起をテーマとするこの物語に、卑小ながらもあれやこれやと思い巡らすことがあったのでした。

 

この引っかかりが腑に落ちたのは、秋山駿さんを囲む社会人も交えた数人の読書会でのこと

当時、大学生で一番年少の私に課題本選択の順番が回り『風の歌、、』を選ぶと、他の年長の皆さん(25~35歳くらいまでの5,6人)からは、総スカンに近い状態で、翻案小説だ、読むに堪えない、ポエトリーだ 云々、と酷評続き…

ぽろりと口を開いた秋山さんが

 「 文學界に載ってた街と、その不確かな壁読んだ?

  あれはさぁ、ジイド『パリュード』なんだなぁ。

  あれは面白かったよ。よくよく考えているんだろうねぇ。 」 

と、唯一の好意的なコメント

秋山さんが「街と、その、、」を読んでいて評価していたことや、私は『パリュード』は未読であっても、ジイド好きの自分の中で、この2人に繋がる示唆があり、独りごちながら安堵を感じたのです。

『パリュード』は、直ぐに古本屋で探して読んでみましたが、あまり面白い内容とは言い難く、沼地を眺めながら退屈な小説を書く男の話が、入れ子の構造になった妙な短編で、物語としては村上作品のほうが数倍面白いと感じました。

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 手持ちは、奥付昭和11年の古本。近年復刻版が出たようで、標題も左からの現代表記になっています。

『パリュード』の評価については、後年、杉本秀太郎氏の文章を読んで多少上がった感もあります(笑)。

 

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)

ノルウェイの森』(1987年)
ねじまき鳥クロニクル』(1994年・1995年)

海辺のカフカ』(2002年)
1Q84』(2009年・2010年)

 

上記意外も、面白くサクサク読めた長編・短編、1980年からこちら

読む作業の中では、時代の中の出来事とのリンク、寓意・隠喩・暗喩を探る深読みゲームに嵌れば、物語を想い出す毎に、現実と虚構を振幅する機会を得たり

それはまた、学生から社会人になり結婚出産、親を見送ったりと、現在は、いい歳のおばさんになった自分を顧みる時間とも平行して、二重らせん構造の時間軸になっている読書体験というわけなのです。

まぁ、ここまで来てしまったからには読まずに評価はできないので、24日の新刊は、世間のほとぼりが冷めた頃にでも読んでみたいと思います。

 

しかし、村上作品の影響力は、底知れぬものがあって驚きですね。

1Q84では、冒頭に出てくるヤナーチェクのCDが売り切れてプレス待ちとか

ヤナーチェクなら、映画「存在の耐えられない軽さ」で散々使われて一躍脚光を浴びたはずなのに…若い人たちも物語に誘引されて、音楽も聴いてみたい、ということなのでしょう。

今回は題名から、オペラ『ドン・ジョバンニ』関連説も流れているようです。

 

68歳 世界的な人気作家となった村上氏が、どんな物語を提示してくれるのか?

今年の始めの楽しみのひとつです。

 

 

春は苦みから スプリングエフェメラルの誘惑

暦は大寒 とはいえ

ゆうぐれ 5時を過ぎてもまだ明るい空に 光の春 を感じるようになりました。

ご近所の庭先では、早咲きの紅梅や蠟梅がほころびはじめ 引き締まるような冷たい空気に芳香を放ち、寒さを和ませています。

地表には、雑草のロゼッタがまだ弱い光を精一杯に受けるべく冬葉を広げ、キンポウゲ科のスプリングエフェメラルの花も 里山に まもなく顔を出すことでしょう。

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節分草(セツブンソウ)〜栃木・星野自然村 より画像転載 Shibateranthis pinnatifida Maxim.

 

食では 春は苦みから などど言います。

既に年末のスーパーで、正月用お祝い膳の青味なのか?いささかお高い菜の花は見かけました。一昨日は、かなりお手頃になった路地もの? ふきのとう・うるい・たらの芽・うど・菜の花 と ずらりと並んでいたので、お酒のあてにぬたを一皿…

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メインは、カジキのスティックフライで 揚げもののタルタルソースには、さっぱり系の辛子酢味噌がちょうどいいかな…と。

 

以前のブログでは、ちゃちゃっとできるお酒のあてをご披露してくださる独身お兄さんが居て参考になりました。箸休めの一品も毎日となるとままならず、季節を感じる一皿を、ククパ以外のブログ 他で、ご指南いただけるとありがたい。

 

わが家も家族が揃って食事をする時間も少なくなり、家庭内フードロス回避のために、私が残りもの処理係になるわけですが

冷蔵庫をざっと見渡し、冷凍いくらの解凍3日目を消費すべく 前日の残り物で 見栄えで誤魔化す菜の花ちらし寿司の完成。よくよく見れば、いくらのつぶつぶのへこみ具合に3日目が表出しているわけです(汗笑)。

 

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最近、春菊に独特の薫りが減ってきたと感じるのと同じように、今回の菜の花にも苦みが足りない…ほとんど苦みを感じない…これは味覚器官の劣化なのか?たまたま苦みの少ないものに当たったのか? 願わくば、もっと苦みを(笑。

謎は残るものの、この手のものが苦手な人には食べやすく変化しているので、万人向けに品種改良がされているのかもしれません。

 

料理の上級者は 青魚の処理ができる人 有り合わせの食材でまかないができる人

 

以前、プロの料理写真家の方から聞いたことがありました。

TV雑誌で活躍する著名な料理家と仕事をするうち、ご飯をご馳走になりながら知った とのこと。特別に食材を買い揃えなくとも、今有る手持ちの食材を組み合わせて美味しいものを手早くちゃちゃっと作る…みなさん流石の魔法の腕の持ち主らしい。

あれとこれがあれば、こうした味になるかも? という経験に伴う感覚もあることでしょう。嗜好は、人それぞれに異なっても、なかなかに創造的な行為といえます。

 

料理をする行為は、食材選びから始まり、切る・煮る・焼く・揚げる と、手順もあり

調理器具との兼ね合い、そのプロセスの手際の良さなど 脳を鍛える良い作業であると聞きました。死ぬまで生きるその日まで、食う・寝る・出す は、続きますから 上級者には届かなくても、限定された材料での調理…上を目指したいものですね。

認知症予防にも有益な行為だそうですよ。

 

春になると聴きたい 想い出のアルバム

当初に購入したLPレコードは友人に貸したきり、戻らない…。

 

ものがたり交響 映像と音楽の臨界

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 映画『ヴェニスに死す』Death in Venice 監督脚本 ルキノ・ヴィスコンティ 1971年 ラスト

オリジナル・サウンドトラック Luchino Visconti Presents The Original Motion Picture Soundtrack From The Film Death In Venice フランコ・マンニーノ 指揮  ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団 

 

とうに松も明けていますが、みなさま本年もよろしくお願いいたします。

さて本日は、私がかつて観た映画と音楽の話なので、かなり限定的ですが宜しければお付き合い下さい。

 

昨年11月始め、荒戸源次郎さんの訃報を記憶に留めた方もいらっしゃるでしょう。

荒戸さんのお名前を私が意識したのは

映画 赤目四十八瀧心中未遂(2003年) 監督作品を観て後のこと。さほど熱心な鑑賞者ではない自分が、この時に、若い頃から荒戸関連作品(監督以外のプロデュースも含めて)を何本か観ていた事に気付きました。以下は私が映画館・特設劇場で観た荒戸関連ものです。

 

ツィゴイネルワイゼン(1980年)鈴木清順監督ツィゴイネルワイゼンサラサーテ 

陽炎座(1981年)鈴木清順監督

夢二(1991年)鈴木清順監督

外科室(1992年)坂東玉三郎監督 ラフマニノフの何か

赤目四十八瀧心中未遂(2003年)監督

ゲルマニウムの夜(2005年)大森立嗣監督「レクイエム」ガブリエル・フォーレ 

 

ゲルマに関しては、日記がありましたので貼っておきましょう。

ゲルマを観た時には、作品が音楽に随分と支えられていると感じました。

もしフォーレのレクイエム:インパラディスムが使われていなければ、宗教者のていたらくを暴くエログロ映画として一蹴していたかもしれません(汗笑)。 

まぁ荒戸映画の評価は、これ一本という事では無く、これまでの作品オールを顧みつつ、これは2度は観ないが『ツィゴイネル...』は2度観てもいいかな?ほどの違いでしょうか…(『ツィゴイネル…』は内田百閒の原作も未読で数回観ても話の筋が分からなかった)。

『ツィゴイネル...』もサラサーテのあの曲のレコードの在処を廻り物語は展開するので、鎌倉の切通しや幻想的なオムニバス映像美が、ストーリーを排除し、プロットのみでも独自に成立する面白さに到っている、と感じました。やはりこれもサラサーテのあの曲が作品に付加価値を与えています。

 

映像美と音楽と物語の関係で言えば、私の中で秀逸な作品は やはり

ヴィスコンティヴェニスに死すです。

これは原作トーマス・マンベネチア客死』などという古い邦訳本をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。原作に比較的忠実に制作されたお金のかかった巨匠ヴィスコンティの映画ですから、画像は、隅々に至るまで凝視に堪え得る、設えられた調度や衣装だけでも素晴らしく、多くの方々がその解釈に余念がありません。

既に制昨年から40年以上が過ぎ、webブログの賛はもちろんのこと、マーラー5番のアダージェットが全体を覆う、この映画の或る種の頽廃の美学を、塚本邦雄島田雅彦など著名人が絶賛する文章も目にしました。

もし、まだ観ていないという方がいらっしゃれば、死ぬまでに1度は観ていただきたい(笑)もえぎ推薦トップ5入り確定作品です。

 

私が『ヴェニスに死す』を初めて観たのは10代終わりの名画座で、傷だらけの酷いプリントでしたが、とにかくのっけからマーラーシンフォの諧調に打ちのめされてしまいました。たぶん、自分で購入した初めてのクラシックシンフォLPがこの5番だったと思います(指揮は誰のものだったか?実家に眠っています)

当時は生意気盛りで、李賀の如く「二十にして心已に朽ちたり」を気取りつつ、ラストで、主人公アッシェンバッハ教授が、魅了されたタヂオ少年にいざなわれるように光の彼方へ逝く場面では、不覚にも滂沱状態で椅子から立ち上がれず、ハンカチで涙と鼻水を拭い、しばらくして会場を後にする始末でした。

これより2,3年前に観た同じヴィスコンティ監督『ルードヴィヒ・神々の黄昏』での、監督の寵愛を受けたヘルムード・バーガー演じるバイエルン王ルードヴィヒ2世の死のラストにも何故か『ヴェニス、、』との符牒を感じました。

 

ちょうどこれらヴィスコンティ映画を観た頃に、オスカー・ワイルド『ドリアングレイの画像』を読んでいたことも重なり、老いへの恐怖とも思える美や若さへの固執は、当時は実際に理解できなくとも、惹き込まれる小説の虚構世界に、逃避的に惑溺しました。

 

今、現実に自分が『ヴェニス…』のアッシェンバッハと同じような年齢になり、この映画をふり返ることは、また有意義でもあります。

時間だけはなんぴとにも平等にあり 老いや死は必ずやってくる

老醜という現実 抗うことのほうが実は更に醜くく

これは善悪というような二律背反の問題ではなく、受け入れ認め、たずさえてゆくべきもの。映像は相変わらずたゆとうアダージェットの諧調の中の疫病の街ヴェニスですが、背反に裂かれ惑うのではなく、その合一に昇華すべく 彼は笑みを浮かべながら逝ったのではないのか…。

 原作の主人公は作家ですが、映画ではマーラーとおぼしき主人公とシェーンベルグと目される友人との芸術談義も興味深いですね。

没落貴族の監督は、高級ホテルに逗留する貴族たちを嘲笑するロマの一行とその音楽も丁寧に描いて面白いものでした。

 

大きな震災を経験したり、経済の浮沈、先行き不透明を感じる現在では、確かにこんな映画は浮世離れした高等遊民のものかもしれません。

しかし、このアダージェットの旋律に出逢うことで引き戻される時間は、地上の迷妄の雲を分かち、時としてこころ軽やかな浮上をももたらす妙薬にも似たものがある。

私にとって、このマーラー5番4楽章は『ヴェニスに死す』の物語とパブロフ状態にあり、いささか大仰に言えば、或る思念とも謂える世界をもたらす碧玉の時間のひとつになっています。

 

何年か前、関心空間のキーワードで、エリアフ・インバル指揮のマーラー5番を絶賛されている方がおりました。彼はTHE DOORSの音楽を聴いた時と同様の衝撃を受けたと記すユニークな方で、インバルとマーラーが同じユダヤの血で繋がっているという点などに触れていました。

あの時、早々にインバル1986年録音のCDを購入し、今ではこれを聴いています。

今年80歳のインバルさん、この春も上野文化会館で5番を振るようです。

 

他にも映像と音楽の相乗効果をもたらしているものはたくさんあります。

が『ヴェニス、、』ほどのものには、なかなか出逢えません。 

 

 


 

 

霜月つごもり ときわぎに祈りを込めて 死と再生の祭りを想う

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     ベリー公大時禱書より 12月 1409年 パリ国立図書館

2016年のカレンダーも残り一枚となり、この一年を振り返る話題が多くなりました。

11月は、都心でも積雪を観測するなど冬の到来が早く、既に流感の話も耳にしますので、何かと多用になる12月1月は、ことに健康には留意したいものです。

 

さて時節は冬至(今年は12月21日)に向かい、日没が日毎に早まっています。街のLEDイルミネーションが落葉した木々に美しく輝き、長い夜とクリスマスを盛り上げているのでしょう。12月は、わが家も子どもがちいさい頃にはツリーを飾り、プレゼントお楽しみ作戦やご馳走計画を練るなど、大人も愉しんでこの時を過ごしました。

 

12月に、いつも妙なカンカクを味わうのは

クリスマス終了後の26日から、世の中はいきなり松竹梅のお正月モードに切り替わり、掃除やら新たな飾り付けや年末年始の食材準備でせわしなくなることです。

元来、八百万(やおよろず)の神様たちがそこかしこに居た(今も居るのかもしれませんが)この国のことですから、経済効果さえ見込めれば宗派無用の何でもOK、カモーン迎合?その身替りの早さにはたじろぐことしきり。クリスマスも日本文化に定着し、果たして何の祭りやら意味不明になっているのが現実か(笑。

 

わが家も、既にツリーを飾らなくなって久しく、替わって場所を取らないリースを飾るようになりました。近年は、コスパの良い、月をまたいでも飾れる常盤木(ときわぎ)のフレッシュリースを好んで飾っています。流行もあるでしょうが、ミニマルなオレゴンモミだけのものもあり、針葉樹の深緑から褐色に朽ちてゆく過程が愉しめ、ヒノキチオールのような薫りもなかなか好いものです。

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お正月の松と喧嘩しそうな懸念もありますが、そこのところは、徴(しるし)として共通する常緑樹(ときわぎ)のカミサマ?にお願いして、どうぞ仲良く末永くとお願いしましょう(笑。

 

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 画像集積サイトPinterestで遊ぶうち、yuletide(北欧クリスマス)が、キリスト教流入前の古来の冬至の祭りに由来し、昼と夜の神、光と太陽を祭る神への祈りであることを知りました。

ときわの命の徴(永遠に続く命のしるし)として常緑樹を飾り、長い夜のこの冬至の時節に収穫への感謝とともに豊穣を祭るものなのですね。

ブッシュドノエルのケーキや、ヤドリギの飾りも、古くから祭られた神への捧げものに由来しているようです。

Mistletoe(ヤドリギ) (男根の寓意があるとは知りませんでした)

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師走の日本でも、全国各地で夜を徹した祭りが多くあるのも、冬至と何か関係があるものなのか? 近くの寺の祭りも、夜通し護摩焚きをして念仏を唱え、賑やかな市も立ち、収穫の豊穣を祈るもののようです。

祭りカレンダー 全国版 12月

 

古い祭りの習俗には、長い年月のうちに時の権力に折り合わず、弾圧を受け跡形もなく消滅したものやら、土俗的風習のみが引き継がれ残ったもの、上手く生き延びたものやら、少し歴史をふり返ると面白く見えてくるものもあります。

大きな権力構造に巻き込まれ、滅び去った祈りのかたちの片りんを見つける時、そこに生きた多くの無名の人たちの祈りの声を聴いたような思いが湧きあがり、宇宙の塵に向かって手を合わせたくなります。

ともすると、大きな力に抗いつつも、滅んでいった真摯な市井の人々の祈りの中にこそ、ほんとうのさいわいを求める 何か があったのではないか…と。

 

moegi-saye.hatenadiary.jp

 

 今年のリースは、常盤木のもみを選びました。

 

moegi-saye.hatenadiary.jp

 

遡行の旅 錦繡の森から裸樹の森へ

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                             山の安宿の庭紅葉 2016

都内の落葉樹も随分と色めき立ち、晩秋の装いになりました。

この時期、季節がいち早く廻って来る寒い山は避けて、暖かな陽光の降る海沿いの街へでも行きたい処、人の波に呑まれることを厭う性格が先行し、結局、空いているいつもの山へ出かけることになりました。

高速道路を北に向かうと、しだいに木々の色づきが鮮やかになり、標高が上がるにつれ錦繡のトンネルの中を走ってゆくような場所もありました。サル注意の看板のあるPAは、既に上の山で紅葉が終了しているためか、駐停車輌もまばらでした。

山は、季節の異なる春であれば、こちらで5月の八重櫻が終わる頃に、薄墨の山櫻・唐紅のミツバツツジ・山藤の垂れ花・黄橙のヤマツツジが新緑に綾織りとなり、遅い春のお花見を2度楽しめるという按配になります。秋から冬はその逆となり、先行する冬を覗き見でもするような感覚と言えましょうか?

かれこれ20年以上お世話になっている宿の主人が言うには、今年の庭の紅葉は10日前後遅れ、なんとかまだ見られる状態で幸運とのことでした。

思えば昨夏以降、顕著に進行した独り暮らしの母の認知症介護のために、帰省が月1回から月2回、3回と増え、母の身元引受人たる実家近くに住む姉にも若年認知症を疑われる兆候が現れ、包括センターの母のケアマネからは、母と姉への2人の助言をいただきながらの遠距離介護が続きました。冬から春は私自身も消耗し、検査と通院が続きましたので、この遅れた紅葉は、そのあれやこれやへのご褒美なのかなと想い到ったのです。

禍福はあざなえる縄のごと ちいさな幸せはそこかしこにあるものです。

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     宿の庭のシンボルツリーカエデ ダケカンバはすっかり葉を落としていた

翌朝は真っ白に霜が降り、蒼穹の晴天となりましたので、寒さを覚悟で山の上のほうに車を走らせました。

車の外気温は4℃。木道の日蔭の小川では薄氷がガラス片のように輝いていました。夏には遠足か修学旅行の小中学生に こんちわ攻撃 を受ける木道も、さすがにひっそりと静まり、カラ類の混群か?エナガやキバシリ、またウソのような鳥の声が冬木立に響き耳をそばだてました。

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「花も紅葉もなかりけり」の冬枯れの森は、夏の暗い深山の森が別の空間のごとく明るくなります。鳥や獣のあらわれも容易になり、冬鳥のバードウオッチングには最適です。鳥見の方か?厚物ダウンジャケットに双眼鏡を携えた方とすれ違いました。また人影もまばらな中、薄着の団体さんは若い外国人の方々で、なぜかアメリカヨーロッパ系の方がほとんどでした。

森のお目当ては、最後に落葉するカラマツ林の黄葉でしたが、こちらは既に裸樹で、散り敷いた針葉が靴にびっしり着いて森の薫りを放ちました。

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とても寒かったのですが、散策の中でうつくしい裸樹の森を見ると、きまって脳内に響くのは、以前の日記でも触れているアルヴォ・ペルト(Arvo Pärt )の Tabula rasa やら Arbos です。これもまた私には映像と音楽の複合記憶であるに違いないのです。

            クレーメルの高音域が、トラツグミの囀りを想わせる

 ECMの音楽 ペルトの諧調は、なぜか 冬の音連れ を感じさせます。

 

m-sayeco.hatenablog.com

 

紙魚の迷宮 その迷路の出口は、入り口でもある

ブック

神保町古書街 通り抜け 

地下鉄東西線を九段下で降り、首都高下の河の澱みを見るたび想い出すのは、ここが通学路でもあった学生時代の懐かしい時間です。時代は好景気に向かう中、生来の性格ゆえか?華やかに過ごす事は気恥ずかしく、恋愛をしても自らを解放できない砦を築き、またそれに甘んじ愉しむ自分も居た…もやもやの時間。

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松本竣介『Y市の橋』1944年頃 個人蔵 九段下駅から神保町へ向かう 俎橋 から南を見ると、かつては大手都銀ビルの手前に同潤会アパートがあり、その光景は松本竣介『Y市の橋』のように見えました。

そうは言いつつ、過ぎてから思う4年間の大きな恵みは、この学校の単位取得システムが学部内であれば専攻をまたいで単位を得られる点でした。一般教養終了後の専門課程3・4年もです。

美術・音楽・演劇・外国文学・語学も含め、時間割を組みながら興味の赴くままに登録してみると、それがまた新な次の扉を開くといったラビリンスでした。

上の無題日記の引用には、独逸語のおじいちゃん先生が登場します。

先生の講義はリーダーで、年輪にともなう滋味深い余談がとても楽しく、クリスマスが近づいた日にはカセットテープ持参で、シューベルト菩提樹リンデンバウム(Der Lindenbaum)を先生とみんなで歌いました。

音楽の話題が多く、数奇な生を送ったピアニスト:アーヴィン・ニレジハージ Ervin Nyiregyhazi page に触れたのも確か小宮先生だったと記憶しています。


また、星霜の日記で触れた作家ジャン・パウル(後に知った) フモールhumor に引っかかったのも、小宮先生に提出したレポート H・ヘッセの『デミアン』の感想から引き出され長く尾を引きました。この時に、シューマンで出逢うとは、またまた驚きのもやもや続きでした(笑。

日記にもある通り、フモールは別の勉強会で高橋巌氏よりご教示いただいた

C・G・ユング アプラクサス 叡智の光_Y1-アイオーン・アブラクサス詳細説明 の地平へと誘引され、3年時にはギリシャ語の門ギリシャ語のいろは)という講義も受講。(この先生もおじいちゃんで、ハイデガーの翻訳で知られる桑木務氏)

 もやもや繋がりの探索で、今ならサクっとPC検索すれば欲しい本や疑問も直ぐ解決できるでしょう。しかし、当時はPCが普及する前の時代です。書籍ならまず図書館直行。閉架なら、嫌になるほどゾゾゾと並ぶ蔵書カードを手で繰り、これと思う物をカウンターで頼んで出してもらう…この手間は待ち時間も含めると、今では考えられないことです。そんな時代に学校の開架書庫をぶらぶらして出逢ったのが井筒俊彦『神秘哲學』でした。アプラクサスって、原型は中東ギリシャに違いない、匂うぞこの本…てな具合。立ち読みでぱらぱら頁を繰ると、なんだか身の毛も逆立つ文体の井筒センセイ。今の若者なら コレはんぱねぇ(ぱねぇ~)ちょーヤベェ~(笑)という感じ?こうした意味でも文体って大事ですよね(笑。

上のキーワードで 『神秘哲學』第一部希臘神秘哲學 を引用してますが、まぁイっちゃってるな、この人という文体でしょ?

年寄りの話は、長くてネ…という揶揄も聞こえますので、端的に言えば、結局のところ もやもやの蔓は、長い人生の中でも芋づる式に連なってゆき、螺旋状に進んでなかなか出口は見つからない ということなんです。

ちょうど数年前に、関心空間K衣。氏の読書録で、井筒俊彦の標題を見つけ、著書の若松英輔さんを知りました。で、簡単そうなところから2,3読んでみたのです。

若松さんの文章には、 慈しみ と呼べる 哀しみ が、どの本にも通奏低音のように響いています。余白から、この著者は大事な人を亡くされているな…というのが直感で分かりました。図書館で借りて、好い本だと思った『悲しみの秘儀』には、その告白がありました。

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10歳近い年上の奥様を氏は、30代の終わりか40代の初め頃に病死で見送っています。この本は、マーブルカラーのようなカヴァーが7種類あり、気に入ったカヴァー本を購入しようと ついでもあったので神保町の新刊本屋に向かいました。

信山社 棚刺し1冊カヴァーがいまいちでスルー 他著作も数冊在り 

立ち寄りの田村書店の名物おぢさんは不在で、奥様が帳場に…頑固ジジイは、いつまでも世にはばかって欲しいです。下の日記のあの歌集は売れたようでした。

…最近、売れっ子の若松本だからS省堂には平台展開で在るだろうことを予測しましたが、豈図らんや上階に行っても無い…(笑)優秀な書店員さんは、直ぐに今の在庫はこれだけです…と、棚刺しの別の2冊を指さしましたorz。

あちゃ~!はじめから東京堂に行けば良かった(行ってないのですが:笑)。スズラン通りに入るのを面倒がる私がいけなかった。所用を済ませた帰りに新宿紀伊國屋に寄ると、こちらは流石に平台展開で、他著作の棚刺しも数冊以上ずらりありました。 

この本は、2015年、年初から半年間、日経夕刊の連載を書籍化したとあって、企業人として仕事をした時期のご自分を顧みるところから始まっています。奥様を亡くされた後もその病の治癒に関係したのか?健康補助食品の販売にも関わられているようですが、包み隠すことなく仕事を続けていらっしゃる姿は、これもまた人間的だと思いました。

井筒俊彦―叡知の哲学』慶應義塾大学出版会 四六判/上製/474頁 

これはまだちょっとハードルの高い本ですが、図書館予約でもしてチャレンジしてみましょう。今月末の自由学園明日館の講演もすぐ満席のお知らせで今回は逃して残念です。 震災後、西荻CDショップ『雨と休日』さんで知った青木隼人さんのギター演奏も楽しみでしたのに。。。