もえぎの日録

関心空間(2016.10.31閉鎖)から移行 日記とキーワードが混在しています 移ろう日々のことなどを記します

衣 鉢

  「一、葬式無用」

  「一、戒名不用」

白洲次郎は遺言までスマートであったか、、

この実用新書をもう少し前に読んでいたら、この1・2ヶ月をもっと潔く過ごせたかもしれないと口惜しい

四十九日  初彼岸も終る

喪主に近いことはこれまでにあっても

実際、喪主の妻となると実務的なあれやこれやにわずらいも生じる

昭和一桁の人の兄弟は多く

加えて冠婚葬祭好きな田舎のこと

薀蓄を垂れたがる親戚の話がややこしく

加えて、室町時代から続く真言宗智山派田舎寺の住職は、現存する過去帖の檀家一番に記録されている家であると、義父母の幼馴染でもあるので法要の度にクドイほど聞かせる、、、(だからと言って高額な布施は払えません)。

繰り返し繰り返し失敗を重ね人生を拗らせた人の尻ぬぐいで

助言も聞き入れず我を通し、丸裸になり借財と不動産を残し

病に倒れ早世してしまった義母は

子どもに看取られ、或る意味では自らの意思を全うして終らせることが出来

これはこれで実は幸せな末期であったのだろう、、、

世の中には程度の差こそあれさまざまな幸不幸がそこかしこに溢れ

それは自らの尺度とよそびととの比較でしか計れない卑小な価値なのだが

結果としての事実の、試練の受け取り方や転び方により

平凡ではない という 非凡 な経験として受けとめれば 

今後を生きることが面白くなるというものか、、、

先日の新聞インタビュー記事

高橋源一郎:おやじの背中を読んでもまた

そう思った

葬儀社の不思議な見積もり価格に簡単に押印した失策

また例の住職は、その昔、女性と駆け落ちして連れ戻された前歴ある老住職なのだが、諸事情説明に伺い話をしても尚、後の電話で布施額変更する右顧左眄ぶり、、、そもそもこうしたことが電話応対でころころ変わって良いものか、、、自尊心は何処にある?

前述の新書を読むと、この辺りの虚礼儀式がこの10年で激変している事実を知った。

戦後、地方から都会へ出てきた寺檀無し墓無し核家族世帯の高齢者が今、亡くなる時期を向かえて、無宗教墓の直葬・家族葬が増加の一途だという。

戒名の来歴や、不用論の意味、親の戒名を付けた鴎外や知人の戒名を付けた露伴の実例を知ると、今回の葬儀にあたり六文字+居士(大姉)であるにもかかわらず、相場の倍近い布施額を言い渡された現実は、一体どういうことなのか、、、これが檀家の使命であるのかと腑に落ちない疑問も残り、不用論が納得できる。

戒名は、後の法要料や寄進額にも影響するという。

先日、久しぶりの帰省の折に、実家の祖父母の位牌をまじまじと眺めて驚いたが、二人ともに院号7文字+居士・大姉である。

父に尋ねれば、こちらの寺には先代から相応の寄進もしている為に、時はバブル期にもかかわらず良い戒名ながら破格の安さで頂いたという話だった。

都会では寺檀制度は崩壊しつつある

杉並に住む叔父の葬儀がまさにこれだった

都会周辺部でも、同様の事が起こりつつある現実を如実に垣間見る

あと10年もしないうちに

葬式仏教に頼る寺も相当数は淘汰されるであろう 

遺品を整理しながら

落ち着いて故人を偲べるのは独りの時間に違いないことを知る

衣 鉢の画像

衣 鉢の画像

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