生誕の災厄
朝8:00から THE DOORS の紙ジャケCDを掛けていると
うるさい と家族から顰蹙をかう。
Break on through to the other side
Break on through to the other side
Break on through
Break on through
昨夜の M氏の言葉 があれからずっと響いている
真摯にそれらを撰びとりゆく間合いに この人の誠実さを直感する
M氏のこれまでの時間が 語られた言葉に凝縮されて
ひとつの透明な水に近い楽音となって
私の脳髄に鳴り続けている
逆立ちをして踊り続ける
本との出逢いは、生きている人間以外との対話だ
本というものに音楽CDや映画はいつまでも絶対に追いつけないだろう
テキストは頭の中(意識や認識の世界)で演奏をするある種の楽譜のようなもの
その透明さを維持するためのツールが本である
自分を踏み抜けば そこには広大な宇宙が広がっている
変わるということは そんなにたいしたことではない
そこを明るく生きぬくことが難儀
これからの僕をみていて欲しい
なんと直截で端的でちょっとだけ傲慢とも想えるお答えに、強烈な嫉妬
私はM氏に嫉妬し続けていたい、、と想う。
R嬢の指摘 「僕等・僕たち・我々・同志」
世代を語る時の主語が複数に変化することは、彼・彼等の認識において当然/自然なことだったのか
「われわれは~」がもたらす欺瞞がどうしてもぬぐえない、、、。
(画像は神代植物公園/朽ち花墓場)