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もえぎの日録

関心空間(2016.10.31閉鎖)から移行 日記とキーワードが混在しています 移ろう日々のことなどを記します

ものがたり交響 映像と音楽の臨界

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 映画『ヴェニスに死す』Death in Venice 監督脚本 ルキノ・ヴィスコンティ 1971年 ラスト

オリジナル・サウンドトラック Luchino Visconti Presents The Original Motion Picture Soundtrack From The Film Death In Venice フランコ・マンニーノ 指揮  ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団 

 

とうに松も明けていますが、みなさま本年もよろしくお願いいたします。

さて本日は、私がかつて観た映画と音楽の話なので、かなり限定的ですが宜しければお付き合い下さい。

 

昨年11月始め、荒戸源次郎さんの訃報を記憶に留めた方もいらっしゃるでしょう。

荒戸さんのお名前を私が意識したのは

映画 赤目四十八瀧心中未遂(2003年) 監督作品を観て後のこと。さほど熱心な鑑賞者ではない自分が、この時に、若い頃から荒戸関連作品(監督以外のプロデュースも含めて)を何本か観ていた事に気付きました。以下は私が映画館・特設劇場で観た荒戸関連ものです。

 

ツィゴイネルワイゼン(1980年)鈴木清順監督ツィゴイネルワイゼンサラサーテ 

陽炎座(1981年)鈴木清順監督

夢二(1991年)鈴木清順監督

外科室(1992年)坂東玉三郎監督 ラフマニノフの何か

赤目四十八瀧心中未遂(2003年)監督

ゲルマニウムの夜(2005年)大森立嗣監督「レクイエム」ガブリエル・フォーレ 

 

ゲルマに関しては、日記がありましたので貼っておきましょう。

ゲルマを観た時には、作品が音楽に随分と支えられていると感じました。

もしフォーレのレクイエム:インパラディスムが使われていなければ、宗教者のていたらくを暴くエログロ映画として一蹴していたかもしれません(汗笑)。 

まぁ荒戸映画の評価は、これ一本という事では無く、これまでの作品オールを顧みつつ、これは2度は観ないが『ツィゴイネル...』は2度観てもいいかな?ほどの違いでしょうか…(『ツィゴイネル…』は内田百閒の原作も未読で数回観ても話の筋が分からなかった)。

『ツィゴイネル...』もサラサーテのあの曲のレコードの在処を廻り物語は展開するので、鎌倉の切通しや幻想的なオムニバス映像美が、ストーリーを排除し、プロットのみでも独自に成立する面白さに到っている、と感じました。やはりこれもサラサーテのあの曲が作品に付加価値を与えています。

 

映像美と音楽と物語の関係で言えば、私の中で秀逸な作品は やはり

ヴィスコンティヴェニスに死すです。

これは原作トーマス・マンベネチア客死』などという古い邦訳本をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。原作に比較的忠実に制作されたお金のかかった巨匠ヴィスコンティの映画ですから、画像は、隅々に至るまで凝視に堪え得る、設えられた調度や衣装だけでも素晴らしく、多くの方々がその解釈に余念がありません。

既に制昨年から40年以上が過ぎ、webブログの賛はもちろんのこと、マーラー5番のアダージェットが全体を覆う、この映画の或る種の頽廃の美学を、塚本邦雄島田雅彦など著名人が絶賛する文章も目にしました。

もし、まだ観ていないという方がいらっしゃれば、死ぬまでに1度は観ていただきたい(笑)もえぎ推薦トップ5入り確定作品です。

 

私が『ヴェニスに死す』を初めて観たのは10代終わりの名画座で、傷だらけの酷いプリントでしたが、とにかくのっけからマーラーシンフォの諧調に打ちのめされてしまいました。たぶん、自分で購入した初めてのクラシックシンフォLPがこの5番だったと思います(指揮は誰のものだったか?実家に眠っています)

当時は生意気盛りで、李賀の如く「二十にして心已に朽ちたり」を気取りつつ、ラストで、主人公アッシェンバッハ教授が、魅了されたタヂオ少年にいざなわれるように光の彼方へ逝く場面では、不覚にも滂沱状態で椅子から立ち上がれず、ハンカチで涙と鼻水を拭い、しばらくして会場を後にする始末でした。

これより2,3年前に観た同じヴィスコンティ監督『ルードヴィヒ・神々の黄昏』での、監督の寵愛を受けたヘルムード・バーガー演じるバイエルン王ルードヴィヒ2世の死のラストにも何故か『ヴェニス、、』との符牒を感じました。

 

ちょうどこれらヴィスコンティ映画を観た頃に、オスカー・ワイルド『ドリアングレイの画像』を読んでいたことも重なり、老いへの恐怖とも思える美や若さへの固執は、当時は実際に理解できなくとも、惹き込まれる小説の虚構世界に、逃避的に惑溺しました。

 

今、現実に自分が『ヴェニス…』のアッシェンバッハと同じような年齢になり、この映画をふり返ることは、また有意義でもあります。

時間だけはなんぴとにも平等にあり 老いや死は必ずやってくる

老醜という現実 抗うことのほうが実は更に醜くく

これは善悪というような二律背反の問題ではなく、受け入れ認め、たずさえてゆくべきもの。映像は相変わらずたゆとうアダージェットの諧調の中の疫病の街ヴェニスですが、背反に裂かれ惑うのではなく、その合一に昇華すべく 彼は笑みを浮かべながら逝ったのではないのか…。

 原作の主人公は作家ですが、映画ではマーラーとおぼしき主人公とシェーンベルグと目される友人との芸術談義も興味深いですね。

没落貴族の監督は、高級ホテルに逗留する貴族たちを嘲笑するロマの一行とその音楽も丁寧に描いて面白いものでした。

 

大きな震災を経験したり、経済の浮沈、先行き不透明を感じる現在では、確かにこんな映画は浮世離れした高等遊民のものかもしれません。

しかし、このアダージェットの旋律に出逢うことで引き戻される時間は、地上の迷妄の雲を分かち、時としてこころ軽やかな浮上をももたらす妙薬にも似たものがある。

私にとって、このマーラー5番4楽章は『ヴェニスに死す』の物語とパブロフ状態にあり、いささか大仰に言えば、或る思念とも謂える世界をもたらす碧玉の時間のひとつになっています。

 

何年か前、関心空間のキーワードで、エリアフ・インバル指揮のマーラー5番を絶賛されている方がおりました。彼はTHE DOORSの音楽を聴いた時と同様の衝撃を受けたと記すユニークな方で、インバルとマーラーが同じユダヤの血で繋がっているという点などに触れていました。

あの時、早々にインバル1986年録音のCDを購入し、今ではこれを聴いています。

今年80歳のインバルさん、この春も上野文化会館で5番を振るようです。

 

他にも映像と音楽の相乗効果をもたらしているものはたくさんあります。

が『ヴェニス、、』ほどのものには、なかなか出逢えません。