もえぎの日録

関心空間(2016.10.31閉鎖)から移行 日記とキーワードが混在しています 移ろう日々のことなどを記します

葬 送

都内は 予報どおりの 綿雪もよひ

名ばかりの春の日に 戸外は灰白に塗られてゆきます、、、

冬に逝く人が多いという話は 歳を重ねる度に耳にしました

12月半ば

癌の進行からくる貧血で自宅で転倒、軽い骨折をした父は

そのすぐ後に大量下血

秋の転院でお世話になった病院が終末医療を引き受けてくれたため、即刻入院となり

ちょうど40日目の先月 旅立ちました

夏の手術から半年

今回の入院では ひと月 という余命宣告を受け

家族も覚悟して わかっていたつもりでしたが

モルヒネフラッシュ後、血圧が急降下し

、、 あっけない最期でした

入院3日後 父の意識が混濁しはじめた日から 37日間

姉家族と我が家の計6人と母で 昼夜交替で宿泊看護する異常事態になり、がらんとした古い特別室のソファーベットでわたしも数日、父と同じ部屋で朝を向かえました

入院中から、毎日 数名の見舞い客の応対と宿泊に追われ

母や姉は体調を崩し 姪と義兄とわたしとの連携が主で

もう限界だ 看護師さんに任せよう と、わたしが音を上げた頃

最期まで頑張っていた姪に看取られ 父は逝きました

お金持ちでもないのに振舞うのが大好きで 

よそでは好々爺の長老として人望もあったらしく

葬儀の会葬者は500人を越え 

わたしの知らない父の側面をたくさんの方から伺いました

あと、20日ほどで 父、念願の米寿を迎える処でしたが

この夏までは、ほぼ健康で不自由のない生活をした退職後の27年

それは、きっと かみさまが 欲張り過ぎる と、戒めたのでしょう 

多くの方に見送られて しあわせな昭和の人でした

どんなにえらい方の弔辞よりも

精進落としの場で頂いた 「ちょっと不良なKさん」 という仲良し爺のお話が

いちばん身近な父の姿であり、贈る言葉であり こころに沁みました

、、、、まだまだ事務手続きも多く 高速を飛ばして帰省すれば

 「 お帰り 今日は何時間かかった? 」と、父が居間のいつもの場所から言いそうな気がして  居なくなった実感がありません

 大仰に飾られた奥座敷の新しい祭壇前に 高齢の母がひとり座り込み

 なかなか立ち上がらない姿を見るのが辛い時間ですが

 これも周囲で支えながら ゆっくりと こころを立て直してゆくしかありません

 これは誰もが通る道 と、既に両親を見送った友人たちから励ましのメールも入り

 わたしも生活のリズムを整えながら、また日常に戻りましょう、、。

葬 送の画像