もえぎの日録

関心空間(2016.10.31閉鎖)から移行 日記とキーワードが混在しています 移ろう日々のことなどを記します

(タイトルなし)

人の記憶というものは 一体何から構成されているのだろう。

視覚認識によるもの か 文字認識によるもの か

文字も視覚からもたらされる論理思考とすれば、視覚認識に加えられるのか?

  マドレーヌとなんとか…と謂われる匂いから齎される記憶

  追体験した痛み からもたらされる記憶

  音から、、味から、、手触り、、香り、、

さまざまな私の記憶は、およそ映像(画)を伴っていることを今更ながら確認する。

しかし映像(画)を伴わない記憶をするという人もいるという……驚いた。

 

このところのTVニュースで繰り返し流れていた、米食肉業者のBSE関連の映像は、鋭利な弓なりの鎌状の刃物を使い、いとも簡単に牛肉をさばいてゆくもの。これが映る度に、頭を掠めた幻像と画像のよみがえり、、、

◎『ねじまき鳥クロニクルノモンハン大地でのソ連兵による拷問シーン

  これは小説だが、私には想像上のリアルな映像となって記憶された

工作舎「遊」巻頭 松岡正剛監修 屠殺場に山積みにされた鶏の頭部のカラー写真

ドーミエ 動物解体の絵

ドーミエを信奉する絵描き某氏が見学した 芝浦食肉業者の現場の話

 これも聞いた話であるが想像上の画として記憶

◎映画『木靴の樹』 宗教的贄としての動物解体映像

◎映画『ゲルマニウムの夜』養豚屠殺解体映像

 

いずれも私にとっては 非日常の衝撃的な出来事というのが想起の共通点だろう。

殊に、聞いた話や活字からの想起した映像(画)インパクトは、これまでの実体験や記憶の複合であるためか、レム睡眠時にも出現して夢見が悪い。

先日、脳科学者が、レム睡眠が脳の記憶中枢に作用する好ましい影響が証明された、、、というようなことを言っていた。

これは、映像(画)記憶とはなんら関係のない論理的な思考能力への作用のことなのかもしれないが、自分自身の記憶が常に映像(画)と結びついていることを考えると

私にとって記憶を失うということは、記憶した視覚世界を失うことにも繋がりかねない、と想ったりする。

 忘れゆくもの 想い出せないもの が増えつつある昨今のつまらぬ感慨。 

の画像

(突然落ちて割れた 壁に掛けておいたメゾチント)